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努力ができる、とはどういうことか。

「努力した人がむくわれる社会」を望む人は多いです。
努力した人からたくさん徴収した税金を努力の足らない
人に渡すことに納得がいかない、それが度を越えれば
結果として日本から努力する人がいなくなってしまう、と。

でも、「努力」ってそこまで貴重なことなんでしょうか。
私は今の職業について10年になろうとしています。
そこは結果が全ての世界で、おまけに2年前には
会社と喧嘩別れして今や一人事業主です。
私の立ち位置から見渡す限り「努力」をしていない人
ってそうそういません。結果を出している人はもっと
大きな夢を見てさらに努力をしていますし、結果を
出していない人は生き残りをかけて必死の努力を
しています。

一方で、「努力」ができない人も世の中にはたくさんいる。
なぜ?

そう考えるとき、往々にして「自分のまわりはみんな努力
しているのにあいつらは努力していない」とまず自分達
と努力できない人達とを線引きしてしまいがちです。
残念ながら、それは自分の努力を価値あるものと思いたい、
自分への可愛がりの心が生んでいる錯覚に過ぎません。

自分は努力ができているという方は、
自分がどうして努力ができているのかを考えてみてください。
努力ができる人格だから?家族を養いたいから?
それもそうでしょう。でも前提はここにあるはずです。
「努力すれば、なんとかなりそうだから。」

「努力」ができない人達は、この前提を持てない人なんです。

学生時代に平均点をクリアしていたという人は、
そうでなかった同級生を思い浮かべてみてください。
人付き合いが苦にならない、友人も多いという人は
そうではない人を思い浮かべてみてください。
平凡ながらも立派に育ててくれた家庭があったという人は
そうではない家庭に育った人のことを
思い浮かべてみてください。

人には、かわしきることのできない「不運」が起きるのです。

生まれ持った能力差、家庭両親の荒廃、
病気の後遺症、事故事件からのトラウマ、
生まれた時代、進路選択ほか要所での失敗、、
普通たいていの場合、こういったことは無視されます。
フォローが効かない事象は見なかったことにする
という大人の知恵、やりすごしがなされるからです。
しかし実際この世には数え切れないほどの沢山の
「不運」があふれ、それに見舞われた人は「努力」
などで挽回ができるとは思えないシビアな状況で
生きていかねばならなくなっているのです。

努力をすることは、別にえらいことでもなんでも
ありません。単に、運よく「努力したらなんとか
なりそう」なスタート地点に立てた人がゴールに
向かって進んでいる日常にすぎません。

自分可愛がりはやめて、自分の幸運を感謝しませんか?

そして、「運が良い人だけが努力する」今の社会を
「不運にあった人でも助けられ、克服できる」
「不運な人も含めてみんなで努力できる」社会に
変えていきませんか?

一部のしあわせものにおんぶにだっこじゃ、だめですよね。
だったら、みんなでがんばれる社会にしようじゃないですか。

【佐藤翔太】


[編集部より]
筆者の佐藤翔太さんはmixiコミュ「鍋党~再分配を重視する市民の会」の会員で、当ブログには初登場です。記事の感想をコメント欄にお寄せいただければ幸いです。また、ブログの記事の筆者は、「再分配を重視する」という趣旨にご賛同いただける方であれば、mixiコミュの会員であるか否かは問いませんので、原稿をお待ちしております。コメント欄に非公開コメントの機能がありますので、これを利用するなどして下さい。よろしくお願いします。
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テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

■ Comment

No title

そうですね。
本文では便宜上「努力できない人」と表現しましたが実際には努力していない人間なんていません。(不運にあったばかりでガックリきていたり、そこから立ち直れない人はいますが)

みんながみんななりに頑張って生きてる、でも結果には大きな差がついてしまう。そしてその差はどこから来ているかというとすべて「運」。
でも幸運にも結果を出せた人はそれを運のおかげにしたくなくて、努力した自分・努力しない他人、と自分可愛がりの誤解をしてしまう。結果を出せた人は世の中で強い発言力も手に入れられるので「結果を呼ぶのは運ではなく努力だ」と大きな声で主張できてしまう、そういう流れになっていると思います。

僕はこの結果と運と努力の相関性の認識を国民みんなで正しく共有してもらわない限りは再分配の必要性を認識することもできないだろうと考えています。

努力と成果の比例

はじめまして。

私は「努力」というものが人を評価するものさしにされていることに
強く違和感を感じています。
自分の能力の限界まで、あるいはそれ以上にがんばるという意味での
「努力」は、確かにマイナスにはならない良い経験になるものと思います。
しかし、それはあくまで自分の成長にとってどうであったか、ということであって、
なぜ他人と比べたり、見下す根拠になるのか。

そもそも、人が他人の「努力」を評価するなどということは
そうたやすくできるものではない、
親や教師でも、軽々しくは行うべきではないことだと思います。
例えばスポーツ選手と起居、寝食をともにするコーチとかならばまだしも・・・

それでも、傲慢にもアカの他人の「努力」を云々する人が絶えないのは
「努力と成果が比例する」という強固なフィクション、共同幻想が根強いからだと思います。

成果が出ないのは努力が足りないせい、あるいは努力が「本物」ではなかったため
とされてしまいます。学校教育の場でも、こうした考え方がすりこまれているところがありますし、
部活や受験などではなおさらです。
しかし、少し冷静になって考えれば「努力と成果が比例していない」
ケースなどいくらでもあります。ビジネスで成功した人の回想録などでも、「幸運」に
助けられたことをあらわすエピソードがいくらでも出てきます。

しかし、そうしたことを指摘してもなかなか納得されないことが多いです。
「努力」の価値そのものを否定しているかのように取られたり、
「そんなことを言ったら世の中運だという事になって、誰も努力しなくなる」
と極端に取られたりします。

努力と成果は比例する、という共同幻想がなくなるには相当な抵抗があると
思いますが、それを崩せれば、また努力ではどうにもならない要素を
認めることができれば、
努力できない状況に追い込まれている人にも光が当たり、
誰にとっても暮らしやすい社会になるのではないかと思います。
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努力する不幸

努力ができる、とはどういうことか。 という記事を読んでいて思った。 多くの人は、頑張って努力しないと生きていけないと思い込まされていると・・・・ 何故、急激な人口増加が起こるのか? と前回書いたのだが、それはそういう時代があったという証であると思う...
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 「鍋党」(Nabe Party)の参加者がつくるブログです。
 「鍋党」は、再分配を重視する市民の会です。私たちは、格差の縮小と貧困の解消を目指し、国や地方公共団体による、富の再分配の強化を求めます。そのため私たちは、「官から民へ」ではなく、「私から公へ」を追求します。

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